古典の日絵巻

古典の日絵巻[第六巻:能と源氏物語の世界]

古典の日絵巻第六巻 日々のなかの古典

「住吉詣」

第六号 平成29年9月13日

「住吉詣」(すみよしもうで)
「澪標」の巻を典拠とする「住吉詣」

朱雀帝が譲位を決意したことから須磨に身を引いていた光源氏に召還が言い渡され、須磨から都に戻った光源氏は、政界に復帰し、たちまちのうちに内大臣に昇進します。その年の秋、願いの叶ったお礼に随臣たちを従えて、住吉神社に向かいます。お能の前半では、京都から鳥羽、山崎、関戸へと、その道中が絵巻物のように移り過ぎてゆきます。
「鳥羽の恋塚秋の山、過ぐればいとど都の月の、面影隔つる山崎や、関戸の宿も移り来ぬ… …なお行く先は渡辺や、大江の岸に寄る波も、音立ち変へて住吉の、浦わになるも程ぞなき」(謡曲「住吉詣」)
と大勢の随臣とともに華やかに住吉に到着します。

同じ頃、住吉を信仰していた明石の君が侍女を従えて住吉神社に船でやってきますが、源氏の盛大な酒宴を目の当たりにし、みすぼらしいわが身を恥じらい、難波の入江に船を留め、身を引く明石の君。源氏は、どこで明石の君がそこにいることを知ったのか、その心根に気づき、歌をしたため届けます。
「みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひけるえには深しな」
(身を尽くして恋いこがれていたしるしがあって、ここでこうしてめぐり逢ったあなたとの縁は、何と深いのでしょう(馬場あき子訳))
明石の君は、
「数ならでなにはのこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ」
(数ならぬ身にとっては、何事につけても甲斐ないものですのに、なぜまあ貴方さまのことを、身を尽くして思いそめたのでしょうか(同上))
と歌を交わし、変わらぬ愛をたしかめ、船を降りて喜びの盃を重ねます。

澪標(みおつくし)…水路の目印に立てる杭
 光源氏は明石のいる難波の方を眺めながら「今はまた同じ難波なる」と口ずさみます。これは「わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はんとぞ思う」という元良親王の歌です。難波の入江の澪標をたどり、身を尽くして無理にでも逢いたい、と思う気持ちが込められています。

宗家の語る見どころ

【その一】
乱拍子

小書きに乱拍子と書かれると子方が乱拍子を踏みます。乱拍子というと五流揃って「道成寺」で演じられる特殊な舞ですが、金剛流ではこの「住吉詣」に乱拍子が伝わっています。

※乱拍子…小鼓の音に合わせて、さまざまな足遣いを見せる特殊な舞。

【その二】
後半の光源氏と明石の君の相舞(あいまい)

再会のよろこびが通い合う華やかな祝いの舞です。
ひととき楽しく舞った後、名残りを惜しみつつ、明石の君が源氏を静かに見送ります。
原作では、文を交わすだけで二人が対面することはありません。出逢うことのできるお能の方がハッピーと言えます。
しかし、再び出会えた喜びも束の間、いつ都へ呼び寄せてもらえるのか不安な気持ちを抱く明石の君の心情は…。それとも、この再会が幸運への兆しとなるのかもしれません。
2016年「古典の日フォーラム」の中で瀬戸内寂聴さんは、「『源氏物語』の中に登場する多くの女性の中でも、苦労はしたけれども、いい生涯ね。と言われるのは明石だけです。」とお話しされていました。「住吉詣」では、原作にはない再会のよろこびと華やかな二人の心が通いあう舞が演じられます。
この能ではシテの明石上、ツレの光源氏の他、子方、ワキ、アイ等10人以上の出演者が必要で、なかなか演じられることのない演目です。
公演のチラシ等でこの演目を目にされましたら、機会を逃すことなくぜひ能楽堂に足をお運びください。

※相舞…二人の役者が揃って同じ舞を舞うこと。

【その三】
現在能

さて、このお能は現在形式の劇能です。
「夢幻能」と「現在能」ってどう違うの?
亡霊として登場する主人公が過去を回想して演じるのが「夢幻能」。亡霊は面をつけています。それに対し、現実に生きている人間が、時間の流れそのものを演じるものを「現在能」といいます。このお能では、源氏は生きているので、素顔で登場します。

次回は「玉鬘」を紹介いたします。

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次号は平成29年10月に掲載します。

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