[第六巻:能と源氏物語の世界]

古典の日絵巻[第六巻:能と源氏物語の世界]

古典の日絵巻第六巻 能と源氏物語の世界

半蔀

 現存する能の演目は、約240曲ほどあります。その中で『源氏物語』を題材としたものは、新作能を含めて13曲。これほどまでに『源氏物語』が能の演目として取り上げられる理由はなぜなのでしょうか。その魅力を金剛流二十六世宗家、金剛永謹さんにお話しいただきます。

第一号 平成29年4月1日

「半蔀」(はしとみ)
◇原作ストーリー

この曲の典拠は『源氏物語』の「夕顔」の巻です。ある日、光源氏は五条あたりの草の茂る古びた家に白く咲く夕顔に目をとめます。その花を所望すると白い扇に、
心あてにそれかとぞ見る白雲の光添へたる夕顔の花
という歌が書き添えられていました。その歌に心惹かれた光源氏は、
寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔
と歌を返し、夕顔と密かに交際するようになります。その当時、六条御息所のもとへ通っていた光源氏は、気位の高いその性格とはまったく違う頼りなげでおおらかな夕顔に心惹かれていくのです…。

◇宗家の語る見どころ

「半蔀」は、原作の暗いイメージを感じさせない夕顔の花の精のイメージのあるたいへんきれいなお能です。六条御息所の生霊にとり憑かれ息絶えてしまうのですが、このお能では怨霊は出てこないし、怨霊によって殺されたとも言いません。原作とは異なり、夕顔が源氏と出会えた喜び、昔のよい想い出を語る優美で明るい作品です。

お能は歌舞伎や演劇と違い、簡素化された空間で物語が展開していきます。能の世界では舞台に置く道具のことを「作り物(つくりもの)」といいます。夕顔と瓢箪をつけた蔀戸(しとみど)を模した作り物はこの曲独特のもので、夕顔が蔀戸を竹で押し上げ、喜びを表した優美な序の舞を舞った後に、またその奥に消えていきます。

ここでは清楚で若い女性の印象の「小面(こおもて)」を使用します。装束も明るい白を身に着け、白く美しい夕顔をイメージしているのでしょう。同じ題材とする能の「夕顔」では、つける面や装束が変わってきます。

またこの曲は内藤某によってつくられたものですが、この名前は「半蔀」にしか出てきません。これほど人気のある曲を書く人の名前が他に出てこないのもミステリアスな気がします。

次回は「夕顔」を紹介いたします。

小書(こがき)に「立花供養(りっかくよう)」と書かれると、最初に舞台正面に立花が供えられ、そこに夕顔の花を添える特殊な演出があります。
※小書…通常の演出とは異なる演出のことで、番組の曲名の横に小さく書かれています。

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夕顔の舞姿

第二号 平成29年5月1日

「夕顔」(ゆうがお)
原作ストーリー

第一回でご紹介した「半蔀」とは打って変り、同じ題材でもここでは、荒れ果てた屋敷の薄気味悪さと物の怪に襲われて儚く息絶えてしまう夕顔の哀れな運命が描かれています。

宗家の語る見どころ

小書(こがき)に“山ノ端之出”と書かれていると、
山の端の心も知らで行く月は上の空にて影や絶えなん
の謡が鏡の間から聴こえ、この和歌が強調されるたいへんめずらしいお能です。前場では、夕顔が自らの死を予感し、物の怪に襲われた恐ろしさ、その心細さを長々と述懐します。「半蔀」は舞グセ、「夕顔」は()グセと言って語りを聞かせる場面が主となります。後場は、序の舞が中心で、最後に僧の弔いを受けた夕顔の霊が法の力によって救済され、成仏していく姿が描き出されます。

「半蔀」の明るく清楚な白のイメージから、「夕顔」では紫の色が入った装束へと変わり、女性的な情感を感じさせる「孫次郎(まごじろう)」の面は、源氏に出会った時の喜びから物の怪の恐ろしさにおののく心細く儚い夕顔を表現するのでしょう。

このようにお能の作品の中で同じ人物が異なったイメージで登場するのは、一つの演目では表現しきれない夕顔の奥深い人物像を能が再構成したといえます。

夕顔の舞姿

また、ここに登場する物の怪は、姿を現しはしませんが六条御息所と考えられています。原作の中では、「葵上」「女三ノ宮」「紫上」の巻で、六条御息所が物の怪となって登場します。これでは御息所は嫉妬深い嫌な女性に思われてしまいますが、皇太子妃として教養深い高貴な女性であったがゆえに冷静さを保つことができずにいる自分との葛藤が人間としての奥深さを表し、これほどまでに登場人物として取り上げられたのでしょう。お能の演目の中でも人気の高い「葵上」では、この六条御息所が生霊となり鬼となって、その姿を現します。

次回は「葵上」をご紹介いたします。

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「葵上」

第三号 平成29年6月1日

「葵上」(あおいのうえ)
原作ストーリー

六条御息所は、賀茂祭と合せて行われた御禊(ごけい)の行列に、光源氏の姿を一目見ようと人目を忍んで出かけますが、葵上の随者達と牛車を止める場所を巡って争います。御息所の車は追い立てられ、衆目の面前にさらされた屈辱感はやり場のない怒りとなり、魂が体から抜け出て物の怪となってさまよいます。出産を前に物の怪にとり憑かれ苦しむ葵上の病床に寄り添う光源氏は、その正体が御息所の生霊だと知り驚愕します。無事に男の子を出産するものの葵上は急死してしまいます。

宗家の語る見どころ

この演目の作者は明らかではありませんが、近江猿楽の犬王(道阿弥)が演じたものを世阿弥が改作したとされています。道阿弥は、足利義光の法名である「義道」の一字が与えられるほど寵愛を受け、世阿弥が手本にするほどの名人だったのです。
さて、このお能では、光源氏からの愛を奪われた上に、車争いで葵上に敗れ、鬱屈した感情が一気に爆発した六条御息所が、舞台に置かれた出小袖(だしこそで)(赤い装束は病床の葵上を現わしています)に、
瞋恚(しんに)の炎は身を焦す思ひ知らずや思ひ知れ
と、後妻打ち(うわなりうち)で葵上の魂を抜き取ろうと打ちたたき、破れ車(半壊した車は御息所の屈辱と恨みの象徴です)に載せて連れ去ろうとします。
抑えきれない嫉妬心と、「光る君」と大切な人の名前を口に出す御息所の感情が現れる見せ場です。
沢辺の蛍の影よりも 光る君とぞ契らん
ここで大切なのは、御息所の姿は誰の目にも見えていないというところです。御息所の恨みごと哀しみは照日(てるひ)の巫女をとおしてさめざめと語られます。

呪いを残したまま姿を消しますが、後場では、嫉妬という醜い感情が原作にはない心の鬼という形で再び舞台に現れます。金剛流では、鬼となってからは「白般若(しろはんにゃ)」(「泥眼(でいがん)」)の面が用いられます。「般若」の中でも白は鬼といえども気品を感じさせるもので、出自や教養にことさら秀でた御息所の恨みをより強く、より美しく見せるにふさわしい面です。

「葵上」は、能の中でも特に見せ場のあるたいへん有名な作品です。能作者は平安時代の王朝文化に見られるの雅への憧れを、「幽玄」の美として描き出しました。鬼にも幽玄の美が備わっていることをこの曲は知らしめてくれます。御息所が抱く恋慕とそこから燃え上がる嫉妬の念を抑えようとしながら抑えきれない感情の起伏が表現されるところが、この作品の魅力です。

後妻打ち(うわなりうち)…先妻が後妻を恨んで打ちすえること。
※泥眼…白目の部分に金泥を入れた面。女性の生霊を表し、怨霊面として凄みを強調する。高貴な女性が嫉妬に苦しむさまを映したもの。

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「野宮」

第四号 平成29年7月1日

「野宮」(ののみや)
原作ストーリー

この曲の典拠は原作の「賢木」(さかき)からきています。六条御息所は光源氏への未練を断ち切るため、伊勢の斎宮となった娘と伊勢に下る決心をし、嵯峨野の野宮に身を置き精進していました。都を去る日が近づいた頃、光源氏が現れ、手折った榊の枝を垣根に差し出し、この榊の葉のようにいつまでも変わらぬ想いでいることを告げます。
神垣はしるしの杉もなきものをいかにまがへて折れる榊ぞ
心揺れる御息所ですが、後戻りはしまいと決心します…。

宗家の語る見どころ

光源氏への想いを断ち切るための六条御息所の哀感漂う女心が描かれた作品です。「葵上」では御息所が生霊となって、鬼気迫る妖艶さが描き出されていますが、ここでは源氏への妄執と、都から離れたうら寂しい野宮の情景の中で、御息所の過去の屈折した心情が切々と語られます。その無念、妄執からの救いを僧に頼み、昔を想い起こして舞が舞われます。

この演目では、「野宮の黒木の鳥居」を示す作り物がこの世とあの世との結界を表し、半足を出してまた引き入れる様子は、幽玄の世界から現実の世界に足を踏み入れてはいけないという迷いの内外をさまよう御息所の心情を表す重要な演出です。御息所は、源氏の訪問のあった長月(九月)七日を懐かしみ、絶ちけれない想いを深く残す様子でその鳥居の中に消えて行きます。
内外の鳥居に出で入る姿は生死の道を神は受けずや
光源氏への想いは深く、成仏できずにいるのかもしれません。

「野宮」は「井筒」に並ぶ名曲と言われています。これは世阿弥の作であろうと言われていますが、定かではありません。しかしこれが世阿弥の作でないとしたら、すごい人がいたと言われるほどのすばらしい演目なのです。金剛能楽堂では、2017年12月17日(日)に「野宮」が公演されます。ぜひ、この機会にご鑑賞ください。
http://www.kongou-net.com/regular17_2.html

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「須磨源氏」

第五号 平成29年8月1日

「須磨源氏」(すまげんじ)
原作ストーリー

「須磨」・「明石」の巻を典拠とする「須磨源氏」
26歳の春、源氏は朧月夜とのあやまちから官位を剥奪され、須磨に身を引き、侘しく都への寂しさが募る日々を過ごします。上巳の日、開運の祓いをしようとしていると暴風雨に襲われ館も落雷にあいますが、危うく命は助かります。その夜、「住吉の神の導きのままにこの浦を立ち退くように」と桐壷院の霊が源氏の夢枕にあらわれます。翌日、明石の入道が船を仕立てて源氏を迎えにきます。入道は一人娘である明石の君を源氏に嫁がせたいと願っています。源氏は入道の念願を聞き入れ、箏の名手である明石の君を受け入れます。

世阿弥が描く幽玄な世界「須磨源氏」

伊勢参宮を志した日向国宮崎の神主・藤原興典(おきのり)が須磨に立ち寄ると一人の老樵夫が桜を眺めて涙しています。その桜は光源氏にゆかりのある「若木の桜」で、翁は光源氏の挫折と位人臣(くらいじんしん)を極めた一生を語り、光源氏は兜率天(とそつてん)に生まれ変わり、そこで永遠に生きていると言うと雲に隠れます。
夜、興典の夢に打ち寄せる波の音に混じって音楽が聴こえてきます。月光の輝く須磨の浦に、「青海波」の遊楽に引かれた光源氏の霊が天下って舞を舞い、明けそめた春の空に姿を消していきます。

宗家の語る見どころ

前半では光源氏の経歴を滔々と謡いあげます。
帚木(ははきき)の巻に中将、紅葉の賀の巻に正三位に…」花宴(はなのえん)、須磨、明石、澪標(みおつくし少女(おとめ)、とその栄華が語られていきます。最後に「藤の裏葉に太上天皇、かく楽しみを極めて光君(ひかるきみ)と申すなり」立身出世が続き、栄華を次から次に手に入れた源氏の経歴が語られます。

これを知っていると、ちょっと能通! その壱
この曲は京都を中心に活躍した田楽の喜阿弥がつくった謡物を世阿弥が幽玄な能に大成させたものと考えられています。
当時、世阿弥が成功するまでは、京都は田楽が流行し、都の周辺の奈良、摂津、丹波、越前、伊勢等は猿楽が人気があったようです。2つの違いは、猿楽は物まね芸を得意とし、田楽の方が幽玄であったと言われています。

後半では、貴人の霊が華やかに舞う、軽快な〈盤渉早舞〉が見どころです。
お能では、面や作り物、舞、お囃子という言葉や具体的な物にあらわされずに表現されるものがたくさんあります。たとえば、光源氏は、高貴な平安貴族等を表現するのに用いられる色白で眉根を寄せた表情に哀愁が漂う美男の面「中将」をつけます。
盤渉調(ばんしきちょう)の高い調子の笛の音は「水」に関係するもので、波の音が聴こえる須磨の地をあらわしています。

これを知っていると、ちょっと能通! その弐
能の調子は、基準となる黄鐘(おうしき)調、高い調子の盤渉調。そして平調(ひょうじょう)の3つに分かれています。盤色調で演奏されるのは、例えば「(とおる)」は塩竃の浦、「唐船(とうせん)」は中国への船出。「天鼓(てんこ)」の主人公は呂水(ろすい)に沈められてしまいます。「邯鄲(かんたん)」は雨が多い地域というように、盤渉調で舞われる背景には、水が関係していると想像して鑑賞してみましょう。
また「高砂」の“神舞”は通常、黄鐘調で舞われますが、舞台開きの時だけ、この舞台が火事にあわないようにとの願いを込めて、盤渉調で神様の舞が舞われます。

目を閉じて謡の文句を頭に思い描いてみれば、月の光と一体化した光源氏が「青海波」を高雅に舞う姿が浮かび上がってきます。

兜率天(とそつてん)…菩薩が住む清らかな天上世界のこと。須磨は兜率天を往還するにふさわしい清浄感みなぎる天地とされる)
※若木の桜…『源氏物語』に登場する木で、須磨で不遇の生活をしていた時に植えた桜とされる。
早舞(はやまい)…高貴な男性や成仏した女性が舞う舞。
盤渉調(ばんしきちょう)…笛の調子で、常より高い調子をいう。

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「住吉詣」

第六号 平成29年9月13日

「住吉詣」(すみよしもうで)
「澪標」の巻を典拠とする「住吉詣」

朱雀帝が譲位を決意したことから須磨に身を引いていた光源氏に召還が言い渡され、須磨から都に戻った光源氏は、政界に復帰し、たちまちのうちに内大臣に昇進します。その年の秋、願いの叶ったお礼に随臣たちを従えて、住吉神社に向かいます。お能の前半では、京都から鳥羽、山崎、関戸へと、その道中が絵巻物のように移り過ぎてゆきます。
「鳥羽の恋塚秋の山、過ぐればいとど都の月の、面影隔つる山崎や、関戸の宿も移り来ぬ… …なお行く先は渡辺や、大江の岸に寄る波も、音立ち変へて住吉の、浦わになるも程ぞなき」(謡曲「住吉詣」)
と大勢の随臣とともに華やかに住吉に到着します。

同じ頃、住吉を信仰していた明石の君が侍女を従えて住吉神社に船でやってきますが、源氏の盛大な酒宴を目の当たりにし、みすぼらしいわが身を恥じらい、難波の入江に船を留め、身を引く明石の君。源氏は、どこで明石の君がそこにいることを知ったのか、その心根に気づき、歌をしたため届けます。
「みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひけるえには深しな」
(身を尽くして恋いこがれていたしるしがあって、ここでこうしてめぐり逢ったあなたとの縁は、何と深いのでしょう(馬場あき子訳))
明石の君は、
「数ならでなにはのこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ」
(数ならぬ身にとっては、何事につけても甲斐ないものですのに、なぜまあ貴方さまのことを、身を尽くして思いそめたのでしょうか(同上))
と歌を交わし、変わらぬ愛をたしかめ、船を降りて喜びの盃を重ねます。

澪標(みおつくし)…水路の目印に立てる杭
 光源氏は明石のいる難波の方を眺めながら「今はまた同じ難波なる」と口ずさみます。これは「わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はんとぞ思う」という元良親王の歌です。難波の入江の澪標をたどり、身を尽くして無理にでも逢いたい、と思う気持ちが込められています。

宗家の語る見どころ

【その一】
乱拍子

小書きに乱拍子と書かれると子方が乱拍子を踏みます。乱拍子というと五流揃って「道成寺」で演じられる特殊な舞ですが、金剛流ではこの「住吉詣」に乱拍子が伝わっています。

※乱拍子…小鼓の音に合わせて、さまざまな足遣いを見せる特殊な舞。

【その二】
後半の光源氏と明石の君の相舞(あいまい)

再会のよろこびが通い合う華やかな祝いの舞です。
ひととき楽しく舞った後、名残りを惜しみつつ、明石の君が源氏を静かに見送ります。
原作では、文を交わすだけで二人が対面することはありません。出逢うことのできるお能の方がハッピーと言えます。
しかし、再び出会えた喜びも束の間、いつ都へ呼び寄せてもらえるのか不安な気持ちを抱く明石の君の心情は…。それとも、この再会が幸運への兆しとなるのかもしれません。
2016年「古典の日フォーラム」の中で瀬戸内寂聴さんは、「『源氏物語』の中に登場する多くの女性の中でも、苦労はしたけれども、いい生涯ね。と言われるのは明石だけです。」とお話しされていました。「住吉詣」では、原作にはない再会のよろこびと華やかな二人の心が通いあう舞が演じられます。
この能ではシテの明石上、ツレの光源氏の他、子方、ワキ、アイ等10人以上の出演者が必要で、なかなか演じられることのない演目です。
公演のチラシ等でこの演目を目にされましたら、機会を逃すことなくぜひ能楽堂に足をお運びください。

※相舞…二人の役者が揃って同じ舞を舞うこと。

【その三】
現在能

さて、このお能は現在形式の劇能です。
「夢幻能」と「現在能」ってどう違うの?
亡霊として登場する主人公が過去を回想して演じるのが「夢幻能」。亡霊は面をつけています。それに対し、現実に生きている人間が、時間の流れそのものを演じるものを「現在能」といいます。このお能では、源氏は生きているので、素顔で登場します。

次回は「玉鬘」を紹介いたします。

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