[第九巻:古典文学に見える菓子]

古典の日絵巻[第九巻:古典作品で楽しむ和菓子]

古典の日絵巻第九巻 古典作品で楽しむ和菓子

甘葛をかけた削り氷(再現模型) 写真提供:虎屋文庫
古典の日絵巻「第九巻:古典作品で楽しむ和菓子」をお届けします。

『源氏物語』『枕草子』『東海道中膝栗毛』等、皆さんご存知の古典文学のどのような場面でお菓子が登場するのでしょうか?昔と今の違いは?平安から江戸時代まで、菓子の甘味はやさしく心を和ませていたことでしょう。当時の人達が、たいせつに味わっていた様子を思い浮かべながら読み進めていきましょう。ティーブレークのお供にぴったりの中山圭子さんのお話です。本棚から古典を探して読み返したくなること請け合いです。

中山 圭子(なかやまけいこ)

株式会社虎屋 特別理事 虎屋文庫 主席研究員

東京藝術大学美術学部芸術学科卒業。卒論のテーマに「和菓子の意匠」を選ぶ。
著書に『和菓子のほん』(福音館書店)『江戸時代の和菓子デザイン』(ポプラ社)『事典 和菓子の世界 増補改訂版』(岩波書店)などがある。

第一号 令和2年4月1日

4月 『枕草子』とかき氷

平安時代の才媛、清少納言による『枕草子』は、四季折々の自然美や、日々の出来事を感性豊かに描いた随筆として、今も人気の古典です。長短あわせて三百段余りの文章からなりますが、半数以上を占めるのは「虫は」「木の花は」「うつくしきもの」といった「ものづくし」。清少納言の心をとらえた事物があげられており、その観察眼の鋭さや美意識に、読んでいてはっとさせられます。第四十二段の「あてなるもの」(上品なもの)もそのひとつでしょう。


「あてなるもの、薄色に白襲(しらがさね)の汗衫(かざみ)。かりのこ※※

削り氷にあまづら入れて、新しき金鋺(かなまり)に入れたる。水晶の数珠。

藤の花。梅の花に雪のふりかかりたる。いみじううつくしきちごの、いちごなどくひたる」

 

注目したいのは「あまづら」(甘葛・蔦の樹液を煮詰めて作ったとされる甘味料)をかけた削り氷、つまりかき氷。それが新品の金属製の器に盛られた様子を上品だと讃えているのです。

かき氷の存在に、平安時代の人々の生活が身近に感じられますが、実はその価値たるや、昔と今では雲泥の差がありました。冷凍庫がない当時、夏場の氷そのものが希少品。山奥にしつらえた氷室(ひむろ)から氷を取り出し、清少納言のいる宮中に運んでいました。重かったり、溶けたりで四苦八苦だったことでしょう。運び終わってもかき氷機はなく、小刀を使って削っていたと考えられます。鎌倉時代の話になりますが、歌人、藤原定家の日記、『明月記』(めいげつき)が参考になるでしょう。元久元年(1204)七月二十八日の記述に、歌人の源通具(みちとも)が刀で削った氷を、藤原家隆らとともに食べたことが記されています。通具は白い布で包んだ氷を左手でおさえ、慣れた手つきで巧みに削ったようで、その場が盛り上がったさまが想像されます。清少納言の時代にもこうした名手がいたかもしれません。

砂糖が薬品として使われ、高価だった平安時代、甘味料の甘葛は高級品でした。原料となる蔦の樹液を採るには相当な時間と労力がかかる上、煮詰めてできる量は、採集量の十分の一ほど。再現実験から、蜂蜜にも似た繊細な味わいで、琥珀色だったことがわかっています。

金属製の器に盛られた甘葛がけの氷は、きらきらと輝くように見えたのではないでしょうか。貴族のみが許されたこの贅沢品を、清少納言は目の保養にした後、心ゆくまで味わったことでしょう。

薄紫色に白のかさねの童女用の上着
※※アヒルやガチョウなどの卵

 

参考:『枕草子/紫式部日記』日本古典文学大系19、岩波書店、1958年
石橋顕「古代甘味料・甘葛煎の概要」(『和菓子』第18号、虎屋、2011年)

本文は、裏千家淡交会会報誌『淡交タイムス』(2015年8月号)に掲載された記事を加筆修正したものです。

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古典の日絵巻[第九巻:古典作品で楽しむ和菓子]

古典の日絵巻第九巻 古典作品で楽しむ和菓子

椿餅 老松製

第二号 令和2年5月1日

5月 『源氏物語』と椿餅
株式会社虎屋 特別理事 虎屋文庫主席研究員 中山圭子

「古典の日」のホームページではおなじみの『源氏物語』。平安時代に紫式部によって書かれた古典文学の最高傑作です。光源氏を中心とするこの恋愛小説は登場人物の心理描写が細やかで、今なお読者を魅了してやみません。貴族たちの雅びな生活に思いを馳せたり、四季折々の自然風物の美しさに共感したり、読みどころは満載といえるでしょう。
ではお菓子は? と調べてみると、旧暦十月の亥の日に食べる亥の子餅(「葵」)、椿餅(「若菜上」)、粉熟※(ふずく/「宿木」)などがあがります。ここでは蹴鞠(けまり)を終えた若者が椿餅を食べる箇所をご紹介しましょう。


「つぎつぎの殿上人は、簀(す)の子に圓座(わらふだ)めして、

わざとなく、椿もちひ・梨・柑子やうの物ども、さまざまに、

箱の蓋どもに取りまぜつゝあるを、若き人々、そぼれ取りくふ。」

 

蹴鞠は鹿革製の鞠を蹴り上げて遊ぶ球技です。スポーツをして汗をかいたあと、一息つき、椿餅や、梨・柑橘類などを味わっている感じでしょうか。「そぼれ(戯れ)取りくふ」という描写からは、若者の笑い声が聞こえてくるようです。ちなみに、この記述の前に、柏木が源氏の正室、女三宮の愛らしい姿を偶然見て心を奪われる場面があります。ここから悲劇が始まるのですが、興味のある方は、このあたりから読み始めてもよいかもしれません。

さて、椿餅は『源氏物語』の注釈書『河海抄』(かかいしょう・14世紀中頃成立)により、椿の葉で餅を挟んだものだったことがわかります。当時は砂糖が高価な輸入品で、甘味には甘葛(あまずら・蔦の樹液を煮詰めたもの)が使われました。まだ甘い小豆餡はなく、生地に甘葛を加えていたと考えられます。

おもしろいことに、椿餅は蹴鞠に用意される定番の食物でした。先の『河海抄』ほか、時代は下って江戸時代初期の『蹴鞠之目録九拾九箇条』(1631)などに、その旨の記述があるのですが、なぜ椿の葉を使うかは不明です。椿の木が古来、厄除けに使われたことが関係しているのかもしれません。

現在、椿餅は道明寺生地に餡を入れたものが多く、椿の花の時期にあわせてか、2月頃によく作られます。蹴鞠の折に用意されることはなくなりましたが、『源氏物語』の読者には、ぜひ、当時の貴族になった気分で味わっていただきたいもの。物語の世界により親しみがわくのではないでしょうか。

※粉熟…米・麦・豆・胡麻などを材料とした生地をゆで、甘葛をかけ、竹筒に入れ、押し出して、切ったもの。

 

参考:『源氏物語』3 日本古典文学大系16 岩波書店 1958年

本文は、裏千家淡交会会報誌『淡交タイムス』(2015年2月号)に掲載された記事を加筆修正したものです。

 

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古典の日絵巻[第九巻:古典作品で楽しむ和菓子]

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第三号 令和2年6月1日

6月 『土佐日記』とまがり
株式会社虎屋 特別理事 虎屋文庫主席研究員 中山圭子

「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」の冒頭で有名な、紀貫之(きのつらゆき/?~945)作『土佐日記』。承平四年(934)十二月に任国の土佐国を出発し、翌年二月に京都に帰るまでの体験が虚実織り交ぜて綴られています。
菓子で気になるのは、京都の山崎に着いたときの以下のくだりでしょう。


十六日。けふのよう(夜)さつかた、京へのぼるついでにみれば、

やまざき(山崎)のこひつ(小櫃)のゑ(絵)も、

まがりのおほぢのかた(像)もかはらざりけり。

「うりびと(売人)のこゝろをぞしらぬ。」とぞいふなる。

 

一般に「まがり」を唐菓子の一つ、糫餅(まがり)とし、「糫餅の店の看板は変わらないが、物を売る人の心は昔のままだろうか」と解釈されています。唐菓子とは飛鳥~平安時代に中国に派遣された遣唐使などが日本に伝えた食物で、餢飳(ぶと)、索餅(さくべい)、粉熟(ふずく)など、いろいろな種類がありました。糫餅は小麦や米粉の生地を輪のように形づくり、油で揚げたもので、現在も京都や奈良の一部の神社でお供えとして作られています。

 

「まがり」のひらがな表記だけで、読みが同じ糫餅と結びつけてよいのか疑問がわきますが、これに関しては『奇遊談』(1799)※の記述が参考になるでしょう。同書によれば、山崎の八幡宮(離宮八幡宮)では、神事のお供えとして糫餅を「神供の御棚(みたな)」に盛るとのこと。作者の川口好和は上賀茂や下鴨の大社でも供えているが、山崎ではことに昔が偲ばれるとして『土佐日記』に触れ、「むかしは此地(ところ)にて売たることゝ見えたり」と書いています。江戸時代の人も、日記の「まがり」を糫餅と捉えていたことがわかります。

交通の要地として栄えた山崎は、古来、荏胡麻油(えごまあぶら)の製油・販売の地として知られていました。燈明用だったといいますが、油で揚げる糫餅の店があっても不思議ではないと思い、大山崎町歴史資料館※※に問い合わせたところ、『土佐日記』成立の頃に山崎で荏胡麻油を扱っていたかどうかは不明だそうで、糫餅の店の存在は確かめられませんでした。八幡宮での糫餅の神饌についても今や伝えられていない由。しかし同地には観音寺(山崎聖天)があり、歓喜天(聖天)に唐菓子由来の清浄歓喜団(写真)がお供えされているそうです。時代が変わっても山崎が唐菓子にゆかりのある土地だと思うと、「まがり」が、再び作られることを願わずにはいられません。

※『日本随筆大成』第1期23 吉川弘文館 1976年所載。上の「糫餅」の図も見える。

※※同館によると、荏胡麻油の売買については、平安時代後期の史料に記されているという(大山崎町歴史資料館第22回企画展『離宮八幡宮と中世の油売り』図録参照)。

 

参考:森田環「糫餅について」(『和菓子』第12号、虎屋、2005年)

本文は、裏千家淡交会会報誌『淡交タイムス』(2015年3月号)に掲載された記事を加筆修正したものです。

 

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古典の日絵巻[第九巻:古典作品で楽しむ和菓子]

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おはぎ(左から きなこ・こしあん・つぶあん)今西軒製

第四号 令和2年7月1日

7月 『宇治拾遺物語』(うじしゅういものがたり)と「かいもち」(かいもちひ・掻餅)
株式会社虎屋 特別理事 虎屋文庫主席研究員 中山圭子

鎌倉時代初期に成立したといわれる『宇治拾遺物語』は、197話をおさめた説話集です。仏教に関連する説話が中心ですが、階層を問わず、人間心理を巧みに描写し、笑いを誘うものが少なくありません。今回の「児(ちご)のかいもちするに空寝(そらね)したる事」もその一例で、学生時代に教科書で学んだ方も少なくないでしょう。

舞台は比叡山のお寺。ある夜、僧たちが「いざ、かいもちひせん」というのを、児(僧に仕える少年)が耳にします。かいもちが出来上がるのを待って寝ないのも居心地悪く、児は部屋の片隅で寝たふりをします。出来たところで、僧は声をかけますが、児はもう一度呼ばれてからと考え、黙ることに。しかし、僧たちは寝ているのを起こすのもどうかと思い、声をかけません。以下、引用すると…


今一度おこせかしと、思ひ寝に聞けば、ひしひしと、

たゞ食ひに食ふ音のしければ、すべなくて、

無期ののちに、「えい」といらへたりければ、

僧達笑ふ事かぎりなし。

 

声がけを待っているものの、むしゃむしゃと食べる音が聞こえ、児が黙っていられなくなる様子が読者にも伝わってきます。間が抜けたタイミングで返事をしたところ、僧たちは大爆笑。楽しい結末です。

 

さて気になるのは、「かいもち」。いったいどのような食べ物だったのでしょう。学生時代には、おはぎ(ぼた餅)のようなものと教わりましたが、調べてみると解釈はほかにもあることがわかりました。

まずあげられるのは「掻い煉り餅」の略という説です。これは、もち米の粉や蕎麦粉、小麦粉などを水や湯でとき、餅状になるまで練ったり、煮たりしたものと解釈されます。今の「蕎麦がき」がかつて「蕎麦かいもち」と呼ばれていたと聞けば、この説があたっているようにも思われます。

一方、新潟や富山、長野などの方言では「掻餅」を「おはぎ」の意味で使う事例があるそうで、おはぎ説も根拠がないわけではありません。この場合、写真のような色かたちを想像したくなりますが、砂糖が高価な輸入品だった当時、今のような甘みはとても望めないでしょう。

「かいもち」の実体や味わいは謎に包まれていますが、僧たちにとっておいしい夜食だったことは間違いなさそうです。

参考:『宇治拾遺物語』日本古典文学大系27 岩波書店 1960年

本文は、裏千家淡交会会報誌『淡交タイムス』(2015年9月号)に掲載された記事を加筆修正したものです。

 

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古典の日絵巻[第九巻:古典作品で楽しむ和菓子]

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季節の羊羹 水の宿(みずのやどり) 虎屋製

第五号 令和2年8月1日

8月 「文蔵」(ぶんぞう)と羊羹
株式会社虎屋 特別理事 虎屋文庫主席研究員 中山圭子

羊羹とは本来、羊肉を使った羹(あつもの・汁物)のことでした。紀元前の中国の文献にも出てくる料理名で、日本には鎌倉~室町時代、中国に留学した禅僧により点心(てんじん・食間に食べる小食)の一つとして伝えられました。禅僧は肉食を禁じられていたため、小豆や葛粉、小麦粉などを用いて、羊の羹に見立てたと考えられます。

意外なことに羹の名がつく食べ物は、羊羹だけではありませんでした。室町時代の『庭訓往来』(ていきんおうらい)などの往来物(日常生活に必要な知識を教える教科書)には、魚羹や猪羹ほかいろいろな羹が見え、どれも植物性の材料を使った精進料理と解釈されています。

こうした羹類が出てくる楽しい作品が狂言の「文蔵」です。狂言は能の合間に演じられる古典芸能で、室町時代に始まります。当時の武家や庶民の姿が笑いを交えて生き生きと表現されており、「文蔵」は、主人が京都見物をしてきた太郎冠者に、主人の伯父の家で何(食物)を振舞われたかを尋ねる話です。主人が、饂飩・素麵・熱麦・ぬる麦など、点心の名をあげると「さようの物でもござらぬ」と太郎冠者。以下、引用すると、


主人:それならば羹の類であろう。

太郎冠者:それも仰せられてみさせられい。

主人:砂糖羊羹。

太郎冠者:イイヤ。

主人:おんぜん羹・もんぜん羹。

太郎冠者:イイヤ。

主人:玉澗(ぎょっかん)・勅勘(ちょっかん)。

太郎冠者:イイヤ。

主人:大寒か小寒ばし食ろうたか。

 

文中のおんぜん羹は、往来物に見える「雲鱣羹」(うんぜんかん)とも考えられますが、「もんぜん羹」は不詳。玉澗は前述の魚羹、勅勘は猪羹に掛けているのでしょう。これに続き、二十四節気の大寒・小寒まで登場するのですから、「かん」つながりで、かなり脱線しています。今となってはぴんとこない言葉の連続ですが、当時の人は、おもしろおかしく聞いていたのではないでしょうか。

 

なお、砂糖羊羹は今でいう蒸羊羹に近いものとされますが、当時の砂糖の入手状況を考えると、さほど甘くはなかったことでしょう。菓子としての蒸羊羹が定着するのは、砂糖の輸入量が増加した江戸時代になってからです。江戸時代後期には寒天を入れて煉り上げる煉羊羹が登場。今では素材も味も様々で、意匠も凝った羊羹が各地で作られていますので、太郎冠者が知ったら、びっくりすることでしょう。昔の羹類の味も気になりますが、おいしく美しい羊羹が味わえる今の方が幸せですね。

最後になりましたが、何を振舞われたかの答えは、題名にも関わっていておもしろいので、ぜひ原典でお確かめください。

※玉澗は中国の画家の名前、 勅勘には天皇から受けるおとがめの意味がある。

参考:『狂言集上』日本古典文学大系42 岩波書店 1960年
   虎屋文庫『ようかん』 新潮社 2019年

本文は、裏千家淡交会会報誌『淡交タイムス』(2015年11月号)に掲載された記事を加筆修正したものです。

 

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えくぼ上用 中村軒製

第六号 令和2年9月1日

9月 「醒睡笑」(せいすいしょう)と饅頭
株式会社虎屋 特別理事 虎屋文庫主席研究員 中山圭子

『醒睡笑』とは「眠りを醒(さ)ます笑い」という意味。題名そのままに本書は笑話集で、落語のネタ本としても知られています。編纂したのは浄土宗の僧、安楽庵策伝(あんらくあんさくでん・1554~1642)。序文によると策伝は、隠居の身の70才にして、子供の頃から書き留めていた笑い話を8巻にまとめてみたそうです。今回は、巻5の「人はそだち」に見える饅頭の話の大筋をご紹介しましょう。


大名の屋敷で能が演じられたときのこと。たくさんの見物人が集まり、

入れない者は塀の外で囃子(はやし)だけを聞いていました。


昼過ぎ、見物席に饅頭が振舞われますが、投げられた一つが塀の外に落ちてしまいます。

山奥に住む者が見つけ、「天人の卵であろう、あたためて雛をかえそう」と綿に包み、

懐に入れて持ち歩いたところ、幾日もたつと青くなってしまいました。


「恐ろしい卵だ、雛になる前に殺そう」と恐る恐る矢じりで突き、

見るや「だから言わぬことではない。中に黒い血の塊があるは。」と言ったとか。

 

饅頭を天人の卵と勘違いし、青かびをふ化の前兆、中身(小豆餡でしょう)を「黒い血」と思うとは奇想天外な話ですが、400年以上も昔のことですので、その時代背景に興味がわいてきます。

そもそも饅頭は、鎌倉~室町時代に中国に留学した禅僧がもたらした点心(食事と食事の間に採る小食)の一つ。禅宗寺院から広まったもので、この笑話が語られた戦国~江戸時代初期には、少なからず知られた食べ物だったと思われます。とはいえ、同書巻7の「舞」に、小豆がたくさん入った「沙(砂)糖饅頭」を高級とする記述があることなどから、小豆餡の入った甘い饅頭は庶民にとって珍しかったと想像できます。当時、砂糖は輸入に頼る貴重品で、甘味料として豊富に使えるものではありませんでした。生まれや育ちによっては、饅頭を食べ物だとすぐにわからない人、一口食べておいしさに大感激する人がいてもおかしくないでしょう。そのように考えれば、誇張されてはいるものの、先の山奥に住んでいる人の言動もわからないわけではありません。

時代は下って江戸時代の中頃には砂糖の輸入量が増加し、全国各地で甘い小豆餡入りの饅頭が作られるようになっていきます。焼印や色づけにより、さまざまな表情の饅頭も誕生。慶事を祝う「笑顔」や「えくぼ」の名の饅頭もあることを、策伝和尚に教えてあげたいですね。

参考:鈴木棠三校注『醒睡笑(上)』 岩波書店 1986年
   鈴木棠三訳『醒睡笑 戦国の笑話』東洋文庫31 平凡社 1988年

本文は、裏千家淡交会会報誌『淡交タイムス』(2016年1月号)に掲載された記事を加筆修正したものです。

 

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金平糖 緑寿庵清水製

第七号 令和2年10月1日

10月 『日本永代蔵』(にっぽんえいたいぐら)と金平糖
株式会社虎屋 特別理事 虎屋文庫主席研究員 中山圭子

『日本永代蔵』は、『好色一代男』で著名な井原西鶴(いはらさいかく・1642~93)の代表作で、元禄元年(1688)の刊行です。6巻6冊の30章から成り、町人が知恵と才覚で富をめざし、成功したり、失敗したりする話が語られます。菓子好きがわくわくするのは、巻5「廻り遠きは時計細工」の、金平糖を作って大儲けする長崎の町人の成功譚でしょう。

金平糖は、室町時代末期にポルトガルやスペインから伝わった南蛮菓子の一つ。その名は砂糖菓子を意味する、ポルトガル語のConfeitoに由来し、永禄12年(1569)、宣教師のルイス・フロイスが、織田信長に献上したことがよく知られています。砂糖が輸入品で高価だった当時、信長は異国の甘い菓子に感激したのではないでしょうか。珍重されただけに、日本でも作れないかと、長い間、様々な試みがなされたことは想像に難くありません。同書の長崎の町人が、いつ頃の時代の人かは不明ですが、「唐人」(中国人)に製法を聞いているので(教えてくれませんが)、ポルトガル人やスペイン人が追放され、鎖国体制となった江戸時代前期とも考えられます。

さて、町人は2年以上も苦労して、ようやく製法を突き止めます。それは、


まづ胡麻を砂糖にて煎じ、幾日も干し乾(かわらげ)て後、

煑鍋(いりなべ)へ蒔(まき)てぬくもりのゆくにしたがひ、

胡麻より砂糖を吹き出し、自から金餅(平)糖となりぬ。

 

というもの。温まっていくうちに胡麻から砂糖が吹き出す記述は、ちょっと不思議です。金平糖を売って財を成す筋は実話に基づいていたとしても、製法については想像が混じっているように思います。

なお、同書の語り口から、本の書かれた頃には、金平糖の製法が上方でも広まり、安値で買えるようになったことがうかがえます。とはいえ、当時はまだ白砂糖が高価なので、黒砂糖を使っていたのかもしれません。

金平糖の作り方について、菓子製法書の『古今名物御前菓子秘伝抄』(1718)には、 芥子の実に煮詰めた砂糖を少しずつ掛けて茶筅でかきまわすことが書かれています。茶筅では、いびつな形になりそうですね。

現在、京都の金平糖専門店、緑寿庵清水では、もち米を原料とするイラ粉を芯にし、回転する大きな釜に入れ、砂糖を溶かした蜜を掛けては乾燥させ、結晶を大きくしていくとのこと。2週間ほどかけて、きれいなイガ(角)のある金平糖を作り上げるそうです。こうした製法技術の進歩の陰には、多くの職人の苦労や創意工夫があったといえるでしょう。

 

写真提供:緑寿庵清水
写真提供:緑寿庵清水

 

※金平糖の原形ともいえるConfeitoは、現在もポルトガルで作られている。回転する鍋を使って結晶を大きくする製法は日本と同様だが、5日間ほどで完成させるため、日本製のような整った角はない。

 

ポルトガルのコンフェイト 写真提供:虎屋文庫
ポルトガルのコンフェイト 写真提供:虎屋文庫

参考:『西鶴集下』 日本古典文学大系48 岩波書店 1960年

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現代の小麦粉煎餅
(左から時計周りに)みそ半月、貴船菊、白川路 田丸弥製

第八号 令和2年11月1日

11月 『助六由縁江戸桜』(すけろくゆかりのえどざくら)と煎餅
株式会社虎屋 特別理事 虎屋文庫主席研究員 中山圭子

通称『助六』の名で知られるこの作品は、歌舞伎十八番の一つ。初演は正徳3年(1713)で、今も歌舞伎を代表する演目として人気を誇っています。粋な江戸っ子助六が悪人どもに啖呵(たんか)を切る姿、傾城(けいせい)の揚巻(あげまき)の五節句にちなんだ豪華な衣装など、見所が多いことも魅力といえるでしょう。

甘いもの好きがまず目をみはるのは、舞台の左右に積み上げられた、竹村伊勢の蒸籠(せいろう)の書き割り。蒸籠といえば、「蒸す容器」が連想されますが、ここでは菓子を届けるときに使う器のことで、井籠とも書き、外居(ほかい)とも呼ばれていました。竹村伊勢とは実在した新吉原の菓子店で、「最中(もなか)の月」※※と「巻煎餅」が有名。蒸籠の店名から、当時の名物菓子に思いが及びます。意表を突くのが、悪役の意休(いきゅう)の子分として登場する、道化のような朝顔仙平です。隈取(くまどり)は朝顔の花の見立て、仙平は煎餅のもじりで、煎餅尽くしの台詞が小気味いいもの。

以下、『歌舞伎十八番集』から引用すると、


己が名をきいて閻魔(えんま)の小遣帳にくつゝけ。

ことも愚かやこの絲鬢(いとびん)は、さとうせんべいが孫、

薄雪せんべいは己が姉、木の葉せんべいとはゆきあひの兄弟、

塩煎餅が親分に、朝顔せんべいといふ色奴(いろやっこ)だぞ。

 

続々と煎餅の名があがりますが、これらは実際に作られていたものでしょう。たとえば、「薄雪せんべい」は尾張町にあった伊勢屋次郎兵衛、朝顔煎餅は京橋北八丁堀の藤屋清左衛門の商品だったもよう。後者は朝顔を側面から見たような形といいますので、ラッパのごとく、先が広がっていたのかもしれません。煎餅尽くしの台詞は宣伝のためで、贔屓客に煎餅屋(竹村伊勢もその一つ)がいたり、役者が副業で煎餅屋を営んでいたりしたことが背景にあったとされます。

さて、当時の煎餅ですが、図説百科事典『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』(1712序)には、麦の粉を糖蜜でこね、蒸してから生地を広げ、乾燥させたあと、金型に入れ、両面を焙(あぶ)る旨が見えます。小麦粉生地で、型を使うとなれば、今日の瓦煎餅に似たところもありますね。また、『古今名物御前菓子秘伝抄』(1718)には金型に餅生地を入れて焼く製法が記されています。このように煎餅にも種類がありましたが、江戸っ子に似合いそうな、うるち米生地の醤油煎餅は、まだ作られていなかったと考えられます。実は草加煎餅のような醤油煎餅は明治時代以降に広まったものなのです。『助六』を見ながら、江戸時代の煎餅の味わいを想像するのも、一興でしょう。

舞台の大道具の一つ。風景などを描いたもので、背景として使う。いくつかに分割できることからこの名がある。
※※「中秋の名月」や満月を意味する菓銘で、丸い麩焼き煎餅のようなものと解釈される。

参考:『歌舞伎十八番集』 日本古典文学大系98 岩波書店 1965年

本文は、裏千家淡交会会報誌『淡交タイムス』(2015年7月号)に掲載された記事を加筆修正したものです。

 

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